2026-06-12

小説『終わりなき神話』と映画『スーパーマン』を比較



小説『終わりなき神話』と映画『スーパーマン』を比較する

― 怒涛のアイデア消費、異次元が日常にある世界、鎖国するマルチバースへのアンチテーゼ ―

ジェームズ・ガンが新生DCユニバース(DCU)の号レとして放った映画『スーパーマン』(2025)は、従来のハリウッド映画が持っていた丁寧な世界観説明(ワールドビルディング)の常識を心地よく破壊してみせた。それは、映画数本分に相当するSF的プロットや高次元のアイデアを惜しげもなく1本の映画の中に詰め込み、秒単位で消費していくという、圧倒的な「過剰さ」に満ちた異次元のエンターテインメントである。


そして、日本のWeb文芸シーンにおいて多元宇宙の最果て、ひいてはオムニバースの「外側」へと際限なき拡張を続けるSF神話叙事詩『終わりなき神話』もまた、この映画『スーパーマン』と極めて美しい驚きをもって共鳴する構造を有している。


本稿では、両作が描く「異次元が日常化した世界」の凄み、アイデアを贅沢に燃やし尽くす推進力、そして物語がどれほど肥大化しても失われない「絶対的孤独と唯一の理解者」という情動の核について深く考察していく。


宇宙や異次元が「当たり前」に存在する世界のスピード感


映画『スーパーマン』(2025)の世界において、宇宙人や異次元の存在、超常現象はすでに日常の一部として完全に「前提化」されている。物語の背景には、説明のない異次元のモンスターがごく当たり前にうごめき、地球を蹂躙する巨大な「怪獣(KAIJU)」が登場したかと思えば、数分間の戦闘を経てあっさりと退場していく。


さらに、レックス・ルーサーが所有する「ポケットユニバース(ポケット宇宙)」や、そこを渡る不気味な造形物「ミスター・ハンサム」、そして手のひらサイズの太陽を作り出すメタヒューマンなど、SFファンが狂喜するようなガジェットが何の説明もなく画面を横切る。世界観の説明に時間を割くのではなく、「これが僕たちの生きている世界だ」と言わんばかりの圧倒的なスピード感で物語が駆動するのだ。


この「情報の過剰さと前提化」こそ、『終わりなき神話』の核心そのものである。

本作においても、単一の宇宙からマルチバース、オムニバース、そして人間の知覚を超越した「不確定無限領域」へと向かう歩みは、いちいち過去の段階に留まらない。預言者オルトが記録する世界の断章において、次元の歪みや神話的な階層の転換は「当たり前の事実」として処理され、物語は常にその先にある概念戦へと突入する。読者に過度な説明による手加減をせず、壮大すぎる宇宙論(コスモロジー)の荒波の中にダイレクトに放り込む手法は、ジェームズ・ガンが提示した「過剰なる世界の日常化」と完全にシンクロしている。


何本も作品にできるアイデアを、一瞬で消費する贅沢


ジェームズ・ガンがこの映画で行った最大のアプローチは、「アイデアの浪費」とも言える贅沢な詰め込みだ。普通の映画であれば「ポケット宇宙からの脱出」や「手のひらサイズの太陽を巡る攻防」だけで映画が一本、あるいは三部作が作れるほどのSF的プロットを、劇中の単なる一要素、あるいは数十秒のシーンとして惜しげもなく使い捨てる。


この「一つの設定に安住せず、溢れ出る創作的アイデアを次々と燃料として燃やし尽くしながら先へ進む」という疾走感と贅沢さは、『終わりなき神話』の持つ爆発的な推進力と完全に一致する。

『終わりなき神話』では、一つの宇宙の誕生や崩壊、あるいは神々やデビルとの激突が描かれるが、それらの壮大なイベントはゴールではなく、次の階層(オムニバースの外側)へ至るための単なる「通過点」に過ぎない。既存の枠組みに閉じこもる(鎖国する)ことなく、常に新しい驚きを提示し続けるからこそ、物語は終わらない神話としてのスケールを維持できるのである。


どこまでも孤独な超越者と、その魂を繋ぎ止める唯一の錨


しかし、世界が大きくなればなるほど、そして自身の持つ力が世界そのものを超越すればするほど、そこに立つ主人公は「絶対的な孤独」に囚われることになる。

映画『スーパーマン』の情緒の核は、彼が地球を救う最強の存在でありながら、同時に「エイリアンとしての遺産」と「人間としての家族」の狭間で引き裂かれた、どこまでも孤独な異邦人であるという点にある。周囲をどれだけ多くのヒーローやメタヒューマンが取り囲もうとも、彼の本質的な理解者は一人しかいない。それが、人間の記者であるロイス・レインだ。ロイスという存在だけが、スーパーマンを「神」や「兵器」ではなく、一人の「人間(クラーク・ケント)」として繋ぎ止める錨(アンカー)となる。


この切実な二者関係の構図は、『終わりなき神話』におけるメシア・クライストと、その恋人マリア・プリーストの関係性にそのまま重ね合わせることができる。

メシアは、もう一人の主人公ジェフ・アーガーと共に壮大な神話の渦の中心に立ち、オムニバースや不確定無限領域という、常人では精神が崩壊するような超高次元の領域へと向かう。世界が無限に拡大し、自分が神話的な「象徴」へと近づくほど、メシアという存在の孤独は深まっていく。その無限の孤独の中で、彼をただのシステムや破壊の神にさせず、その魂を繋ぎ止める唯一の光となるのが、恋人マリア・プリーストの存在である。


スーパーマンにとってのロイスがそうであるように、メシアにとってのマリア・プリーストは、世界がどれほど肥大化し、どれほど異次元のモンスターや混沌に満ち溢れようとも、「そこに帰るべき理由」を与える絶対的な理解者なのだ。


結論


映画『スーパーマン』(2025)が示した、怒涛のアイデア消費と、異次元が当たり前にある多層世界、そしてその中心にある孤独と愛。それは、小説『終わりなき神話』が描き出す「無限の拡張」と、重要人物たちが抱える「魂のドラマ」の構造と美しく響き合っている。


どれだけ宇宙のスケールが大きくなり、手のひらの太陽や不確定無限領域といった超絶的なアイデアが飛び交おうとも、物語の核にあるのは、メシアやスーパーマンが抱える孤独と、それを受け止めるマリアやロイスという「たった一人の存在」である。

巨大な神話とは、無限の広がりを持つ外側の宇宙と、たった一人を想う内側の宇宙が、同時に限界突破を果たす瞬間にこそ、真の輝きを放ち、読者の心を捉えて離さないのである。


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