小説『終わりなき神話』と『ザ・ジュラシック・リーグ』を比較する
― 原始の獣性に宿る神話の根源と、DCオムニバースが魅せた「無限の可能性」 ―
DCコミックスが誇るオムニバース(全多元宇宙)の可能性を、最も奇抜かつ純粋な形で証明してみせた怪作、それが『ザ・ジュラシック・リーグ(The Jurassic League)』である。バットマンやスーパーマンといったお馴染みのヒーローたちが、「もしも恐竜だったら?」というワンアイデアから生まれたこの作品は、単なる出落ちのパロディではない。恐竜たちの荒々しい獣性と、ヒーローとしての高潔な魂が融合した、極めて純度の高い「原始の神話」である。
そして、多元宇宙のさらに外側、不確定無限領域へと冷徹に進撃を続けるSF神話叙事詩『終わりなき神話』もまた、この『ジュラシック・リーグ』が提示した「オムニバースという器が持つ、限界なき全肯定の可能性」と深く、そして美しく響き合っている。
本稿では、恐竜たちのジャスティス・リーグが体現した世界の広がりと、両作に共通する「神話の根源的なダイナミズム」について考察していく。
DCオムニバースの極致:どんなに奇抜な世界も「正史」になり得る器
『ザ・ジュラシック・リーグ』の世界(アース27)では、トリケラトプスの姿をした「バットマン(バット・ウォーカー)」や、ブラキオサウルスの「スーパーマン(スーパサウルス)」たちが、原始の地球で邪悪な脅威と戦っている。かつてのマルチバースの枠組みであれば、これは単なる「もしもの話(エルスワールド)」として片付けられていたかもしれない。しかし、すべての可能性や創作物を内包する「DCオムニバース」という概念が確立された現代において、この恐竜たちの宇宙は、メインの地球(アース0)と完全に等価値な「実在する一つの現実」として全肯定されている。
この「どんなに変異した世界であっても、等価値な現実として内包する」というオムニバースの包容力こそ、『終わりなき神話』の舞台構築の凄みそのものである。
『終わりなき神話』におけるオムニバース、そしてその先にある不確定無限領域もまた、あらゆる可能性を拒絶しない。預言者オルトの記録に遺された多重宇宙の断章は、人間中心的な物理法則や概念を遥かに超越した世界を次々と提示する。『ジュラシック・リーグ』がヒーローの概念を恐竜という異形に託したように、『終わりなき神話』もまた、既存のSFやファンタジーの固定観念に囚われない、全く新しい高次の神話体系を一つの巨大なコスモロジーの中に内包させているのだ。
原始の獣性と、プロットに統制された「神話の純度」
『ジュラシック・リーグ』の魅力は、文字通り「肉体と肉体が激突する」原始的なエネルギーにある。言葉による理屈を排し、咆哮と暴力が飛び交う世界でありながら、そこには「絶対的な善と悪の激突」という、神話が本来持っていた最もピュアな核が剥き出しになっている。一見するとカオスな恐竜大戦だが、その中身はDCの伝統的なヒーロー・神話の構造に極めて忠実であり、緻密に計算されたプロットに沿って展開していく。
この「圧倒的なダイナミズムと、冷徹なプロットの統率力」の融合は、『終わりなき神話』のアイデンティティと完全に一致する。
『終わりなき神話』において、メシア・クライストやジェフ・アーガーが対峙する神々やデビルとの激突、あるいは不確定無限領域への世界突破は、知覚をも狂わせるほどの圧倒的なスケールとエネルギーで描かれる。しかし、その混沌に満ちた拡張の裏では、すべての用語、創作設定、キャラクターたちの配置が、完璧に計算されたプロットの設計図に準じて冷徹にコントロールされている。どれだけ世界が肥大化し、概念が暴走しようとも、物語の核にある神話としての純度が決してブレないのは、両作の根底に強固なプロットの意志が存在するからに他ならない。
結論
恐竜たちのジャスティス・リーグという、一見すると荒唐無稽な世界を「オムニバースの正当な一幕」として昇華させてみせた『ザ・ジュラシック・リーグ』。それは、物語の枠組みを外側へと押し広げ続ける『終わりなき神話』の歩みに対する、コミック界からの鮮烈な回答のようでもある。
企業のものであるアメコミが、時にこうしたオムニバースの可能性の火花を散らすように、個人の執念と無限の想像力によって紡がれる『終わりなき神話』は、常にその檻の外側で、さらなる限界突破を続けている。メシアやジェフ、マリアたちが織りなす因果の糸が、どのような未知の領域(不確定無限領域)を開拓していくのか。枠組みに閉じこもることを拒絶した生きた神話だけが、私たちに「まだ見ぬ世界の可能性」を魅せ続けてくれるのである。

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