『終わりなき神話』とルーディ・ラッカー作品群を比較考察|神話と数学が描く「無限」の正体
小説『終わりなき神話』と、数学者・SF作家として知られる**ルーディ・ラッカー(Rudy Rucker)**の作品群は、ともに「無限」「実在」「世界の構造」を主題に据えた作品です。前者は神話と信仰によって世界が維持される物語、後者は数学と情報理論によって現実そのものを問い直すSFです。
一見するとアプローチは正反対ですが、両者は世界はなぜ存在し続けるのかという根源的な問いを共有しています。本記事では、『終わりなき神話』とルーディ・ラッカー作品群を比較し、神話と数学が描く無限の違いを考察します。
世界観の比較:信仰に閉じた神話世界と計算で拡張される宇宙
『終わりなき神話』の世界は、神話と信仰によって意味づけられた閉じた構造を持っています。神は語られる存在であり、神話が信じられ続けることで世界は安定します。意味が失われれば、世界そのものが崩壊します。
一方、ルーディ・ラッカーの作品群(『ホワイトライト』『ソフトウェア』『ウェットウェア』など)では、世界は数学的構造や情報処理として描かれます。現実は固定されたものではなく、計算・コピー・再帰によって増殖し、変形し続けます。
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終わりなき神話:意味によって世界が閉じる
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ラッカー作品:計算によって世界が拡張される
無限の扱い方:信仰的無限と数学的無限
『終わりなき神話』が描く無限は、質的無限です。神話が語られ続け、終わることを拒むことで無限性が成立します。無限は「信じられている状態」そのものです。
ルーディ・ラッカーが描く無限は、数学的・構造的無限です。無限集合、高次元空間、自己言及的システムなどが物語の駆動力になります。無限は神秘ではなく、理解しようとする対象として描かれます。
人間の立場:神話の担い手とプログラムの一部
『終わりなき神話』において人間は、神話を信じ、語り、維持する主体です。主人公メシアは象徴として世界に組み込まれ、個人の自由よりも役割が優先されます。
ラッカー作品の登場人物は、人間でありながら、人間であること自体を疑われます。意識はコピーされ、人格はプログラム化され、自己は複製可能な存在として扱われます。人間は神話の担い手ではなく、システムの一部です。
神と超越の描かれ方
『終わりなき神話』における神は、信仰と物語に依存する存在です。神は世界の外にいるのではなく、構造の内側に組み込まれています。
ルーディ・ラッカー作品では、神に相当する存在は数学的原理や計算過程です。全能者は人格ではなく、アルゴリズムや自己再帰構造として現れます。神は信仰対象ではなく、計算可能性の極限です。
思想性の違い
『終わりなき神話』が提示する問いは、
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なぜ人は神話を必要とするのか
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意味に縛られる人生は救いか
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信仰は世界を守るのか
という実存的・宗教的な問いです。
ルーディ・ラッカー作品が提示する問いは、
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現実は計算可能か
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意識は情報に還元できるか
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無限は理解できるのか
という認識論的・数学的問いです。
まとめ:意味の無限と構造の無限
『終わりなき神話』とルーディ・ラッカー作品群は、
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意味を失えないがゆえに終われない神話
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構造が自己増殖することで終わらない宇宙
という異なる形の無限を描いています。
前者は人間が物語を信じ続ける限り存続し、後者は計算が可能である限り拡張されます。この比較は、無限とは信じるものなのか、理解しようとするものなのかという問いを浮かび上がらせます。
神話と数学。感情と論理。そのどちらも、人間が世界を把握しようとするために生み出した、終わることのない試みなのです。




















