『終わりなき神話』とジーリー・シリーズを比較考察|神話が縛る世界と、宇宙史が押し流す世界
小説『終わりなき神話』と、スティーヴン・バクスターによるハードSFの金字塔**ジーリー・シリーズ(Xeelee Sequence)**は、ともに「宇宙規模」「人類を超えた存在」「終わりの見えない物語」を描く作品です。しかし両者が示す世界観と思想は、ほぼ正反対の方向を向いています。
本記事では、『終わりなき神話』とジーリー・シリーズを比較し、神話と物理法則、意味と現実、終わらなさの正体を中心に考察します。
世界観の比較:意味に支配される神話世界と、法則に支配される宇宙史
『終わりなき神話』の世界は、神話と信仰が秩序そのものとして機能する閉じた構造を持っています。神話は物語であると同時に制度であり、人々は意味によって世界を理解し、生き方を規定されます。世界は「語られること」によって存続します。
一方、ジーリー・シリーズの世界は、徹底的に物理法則と宇宙史に支配された開かれた構造です。神話的説明は存在せず、宇宙は冷酷なまでに因果律に従います。人類は宇宙の主役ではなく、数ある知的生命の一種にすぎません。
物語が終わらない理由の違い
『終わりなき神話』が終われない理由は、神話を失えば世界の意味が崩壊するからです。神話は更新され、語り直されながら延命されます。終わりは救済ではなく、意味の消失を意味します。
ジーリー・シリーズが終わりを持たないのは、宇宙史そのものを描く試みだからです。人類の興亡、銀河規模の戦争、宇宙の終焉と再構築。個々の物語が終わっても、時間軸はさらに先へ進みます。
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終わりなき神話:意味が失われないため終われない
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ジーリー・シリーズ:時間が止まらないため終わらない
主人公像の対比:象徴として消費される人間と、取るに足らない人類
『終わりなき神話』の主人公メシアは、象徴として消費される存在です。彼の個性や意思は、神話的役割によって上書きされていきます。人間は神話の中心に置かれますが、その代償として自由を失います。
ジーリー・シリーズでは、特定の主人公が物語を支配することはありません。人類そのものが、圧倒的上位存在ジーリーの前では取るに足らない存在として描かれます。象徴ですらなく、宇宙史の一断面にすぎません。
神と高次存在の扱い
『終わりなき神話』における神は、信仰によって成立する存在です。神は語られることで力を持ち、意味として世界を拘束します。神は世界構造の内側に組み込まれています。
ジーリー・シリーズのジーリーは、神ではありません。彼らは極限まで進化した物理的存在であり、奇跡ではなく理論の延長として描かれます。そこに救済も意志もありません。
無限と絶望の質の違い
『終わりなき神話』が描く絶望は、意味から逃れられないことにあります。理解できてしまうからこそ、人は縛られます。
ジーリー・シリーズの絶望は、理解してもどうにもならないことにあります。宇宙は広大すぎ、人類は弱すぎる。そこに配慮はありません。
思想性の対比
『終わりなき神話』が投げかける問いは、
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人はなぜ神話を必要とするのか
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意味に従う人生は正しいのか
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信仰は救いか、それとも檻か
という内向きの問いです。
ジーリー・シリーズが突きつけるのは、
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宇宙は人類を必要としているのか
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知性に価値はあるのか
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生存そのものに意味はあるのか
という、徹底して外向きで冷酷な問いです。
まとめ:意味に閉じる物語と、意味を拒む宇宙
『終わりなき神話』とジーリー・シリーズは、
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意味を失えないがゆえに終われない神話
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意味など存在しないがゆえに終わらない宇宙史
という正反対の構造を持っています。
一方は人間中心主義を極限まで掘り下げ、もう一方はそれを完全に否定します。この対比は、SFと神話がそれぞれ何を描くための装置なのかを、鮮明に浮かび上がらせます。

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