『終わりなき神話』とグレッグ・イーガン『ディアスポラ』を比較考察|意味に縛られる世界と、意味を超えて進化する知性
小説『終わりなき神話』と、グレッグ・イーガンによるハードSFの代表作**『ディアスポラ(Diaspora)』**は、ともに人類の枠を超えた存在や世界を描きながら、その思想的方向性は正反対に近い位置にあります。一方は神話と信仰によって世界を固定し、もう一方は物理法則と理性によって世界を拡張します。
本記事では、『終わりなき神話』と『ディアスポラ』を比較し、世界観、主体の在り方、物語が「終わらない」理由を中心に考察します。
世界観の比較:神話で閉じる世界と、物理法則で開く宇宙
『終わりなき神話』の世界は、神話と信仰が秩序そのものとして機能する構造を持っています。神話は単なる物語ではなく、世界を説明し、意味づけ、固定する制度です。人々は神話を信じることで世界を理解しますが、その理解は同時に制限でもあります。
一方『ディアスポラ』の世界は、徹底して物理法則と数学によって構築されています。舞台は人類社会を超え、ポリスと呼ばれる情報的存在や、肉体を持たない知性が宇宙を探索します。ここに神話的説明は存在せず、世界は理解可能であり続けることを前提としています。
物語が終わらない理由の違い
『終わりなき神話』が終われない理由は、神話を失えば世界の意味が崩壊するからです。神話は語り直され、更新されながら存続し、終わりを拒否します。終焉は救済ではなく、意味の消滅を意味します。
『ディアスポラ』が描く物語もまた、明確な終点を持ちません。しかしその理由は逆です。知性が進化し続け、宇宙の構造を理解し続ける限り、探究は終わらないからです。終わらないのは停滞ではなく、前進です。
主体の在り方:象徴としての人間と、更新され続ける知性
『終わりなき神話』の主人公メシアは、象徴として消費される存在です。彼は選ばれた者として神話の中心に据えられますが、その分、個としての自由を失います。重要なのは彼が「何を考えるか」より、「何を意味するか」です。
『ディアスポラ』に登場する主体は、固定された人格を持ちません。人格はコピーされ、分岐し、再統合されます。主体は意味や役割ではなく、情報と構造として存在します。ここでは「象徴であること」に価値はありません。
自由意志と制約の方向性
『終わりなき神話』では、自由意志は神話構造の内側に限定されています。選択は可能ですが、神話から完全に離れることはできません。理解は人を縛ります。
『ディアスポラ』では、制約は物理法則のみです。倫理や文化ですら、変更可能な設計要素にすぎません。理解は制約ではなく、解放へとつながります。
思想性の根本的な違い
『終わりなき神話』が問いかけるのは、
人はなぜ神話を必要とするのか
意味に従う人生は正しいのか
救済とは本当に必要なのか
という内省的で人間中心の問いです。
『ディアスポラ』が提示するのは、
知性はどこまで進化できるのか
意識は物理的存在を超えられるのか
人間性は必須なのか
という、人間性そのものを相対化する問いです。
まとめ:意味に留まる物語と、意味を超えていく物語
『終わりなき神話』と『ディアスポラ』は、
意味を失えないがゆえに終われない神話
理解と進化が止まらないがゆえに終わらない宇宙探究譚
という対照的な構造を持っています。
一方は「意味とは何か」を問い続け、もう一方は「意味が不要になる地点」を目指します。この対比は、神話とハードSFがそれぞれ何を描くための形式なのかを、はっきりと示しています。

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